2011年2月19日土曜日

「イース7」の発売予定が明らかに 「イース?ファルコム


Dofus rmt



イベントにて配布されたチラシ

 3月7日,日本ファルコムは東京?秋葉原にて開催されたイベント「イース?ファルコムフェア」のステージ上で,「イース」シリーズの最新作,「イース7」の発売を明らかにした。プラットフォームなどゲームの詳細については,3月中旬以降に同社のIRや各メディアで順次公開される正式発表を待ってほしいとのこと。なお,会場で配布さ
れたチラシには“「イース7」2009年秋発売”との記述があるほか,2009年夏に「イースI&IIクロニクルズ」を発売する旨も書かれていた。






rmt latale

当日は,40分程度のステージが全4回行われた。会場近くは初回ステージの前から多くのファンでギッシリ
物販スペースには新作ファルコムグッズや,過去に販売された工画堂コラボグッズなどが並んだ








物販スペースではファルコムjdkバンドのライブチケット先行販売や,ドラマCD「英雄伝説 空の軌跡 SC?繋がる絆?」の先行予約も行われた

 イベントの目玉となったのは,ファルコムjdkバンドによるミニライブ。ステージの数十センチ前までギッシリと詰まった熱心なファンに向けて,jdkバンドは「イースII」の「To make the end of battle」や,「イースオリジン」の「Beyond the Beginning」など,往年の名曲を披露した。またjdkバンドは,「イースI&IIクロニクルズ」における楽曲全曲のアレンジを手がける rmt メイプルストーリー
ことを明らかにした。
Ragnarok rmt









引用元:フリフオンライン(Flyff) 専門情報サイト

2011年2月16日水曜日

監禁致傷容疑で4人逮捕

 未払い金取り立てを名目に、建設会社の経営者を監禁して暴行し重傷を負わせたとして、大阪府警捜査4課などは2日、逮捕監禁致傷、恐喝未遂などの疑いで、弘道会の傘下団体関係者で不動産仲介会社社員、藤田直希容疑者(37)=大阪市都島区中野町=ら4人を逮捕したと発表した。府警によると、藤田容疑者は「事件は起こしていない」と否認している。

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引用元:SEO対策 | 盛岡市

2011年2月7日月曜日

神戸スイーツ、最強「定番」つくった時代の寵児

【神戸スイーツ年代記(クロニクル)】パティシエ エス?コヤマ 小山進 46歳

 □他人の菓子に興味ない。昨日の自分に負けたくない。

 □変わらない物を大切にしないと、次が見えてこない。

 「パティシエ」。洋菓子職人をフランス語でそう呼ぶようになったのは、昭和から平成へと変わる1990年代のこと。

 フランスで修業した若手が東京で台頭し、メディアが盛んにとりあげた。子供たちのあこがれの職業となり、製菓学校が人気を呼んだ。洋菓子店がパティシエを前面に出して客を集める時代が到来したのである。

 東京のパティシエがブームを引っ張る中、関西でひとり気を吐いていたのが小山だ。

 ◆小山ロール

 世に出るきっかけは、平成4年に始まったテレビ番組「TVチャンピオン」(テレビ東京系)のケーキ職人選手権への出演だった。神戸の「スイス菓子ハイジ」のパティシエだった小山は連覇し、番組の顔となる。パリで開催されたグランドチャンピオン大会では、オリジナルのロールケーキ「小山ロール」が1位に輝いた。

 「ロールケーキは誰もが一度は食べた経験がある。味の基準があるロールケーキで最高記録を塗り替えたかった」と振り返る。

 小山の店の名は「パティシエ エス?コヤマ」。パティシエの時代にふさわしい名といえる。だが、大阪、神戸のベッドタウン、兵庫県三田市のニュータウンの一角とはいえ、実に辺鄙(へんぴ)な場所にある。「自然に囲まれた庭付き一戸建ての店を作りたかったから」というが、同業者からは「鳥の餌でも作るんかいな」と揶揄(やゆ)されたそうだ。

 小山ロールをひっさげて平成15年11月13日、オープンした。開店からわずか2時間でショーケースの中はからっぽに。たちまち「行列ができる店」として三田の名所となる。チャンピオンにとって立地はまったくハンディにならなかった。

 さらに、小山ロールはロールケーキブームに火をつけることになる。

 ◆2人の父

 小山は京都市で生まれた。父は和洋菓子屋の洋菓子部門の一職人。母は「夜は遅い、給料は安い。あんたは菓子屋になったらあかん」が口癖だった。

 当時、菓子職人の社会的地位はまだ低かった。

 高校時代、父の店でアルバイトする。父が同僚に残業を頼めず、何でも一人でやってしまうことに腹が立ち、同僚たちになぐりかかった。「おやじと同じ仕事で成功してみせる」。ハイジの入社試験の面接では「ぜったいに社長になる」とたんかを切った。

 修業の地に選んだ神戸は“洋菓子発祥の地”。ユーハイム、モロゾフ、ゴンチャロフといった外国人が創業した店が東京に進出し、全国ブランドとして君臨。ハイカラで舌の肥えた客が職人、店を鍛えてきた。

 父も「菓子をつくりたいなら、神戸に行け」と背中を押してくれた。

 ところが、ハイジでは入社後、いきなり喫茶部門に回された。紅茶をいれる毎日に嫌気がさしたある日、トーストに添えるバターをバラの花の形にして出した。父がケーキのデコレーションにバタークリームを絞って作り置きしていたのをヒントにした。これが社長の前田昌宏の目にとまり、21歳で支店長に抜擢(ばってき)された。

 小山はかならず結果を出した。「1日1万8000円だった売り上げを150万円にまで伸ばしたこともあった」という。それなのに上司から不本意な異動を言い渡される。「あすから営業をやれ」。

 「将来、会社を背負う人材に」と願う前田の親心と気づくのは、後のこと。

 菓子作りを続けたくてコンテスト出場だけは許してもらった。仕事を終えてから夜遅くまで練習。意地とプライドをかけて数々の製菓コンクールで入賞してみせた。それがTVチャンピオンのスタッフの目に留まり、出演が決まった。

 テレビでの人気は、そのまま店の売り上げに跳ね返った。息子のいない前田は実の息子のようにかわいがり、期待。小山は本店のシェフパティシエ、商品開発部長にまで上りつめる。が、人気に技量が追いついていないことに苦しんだ。「もっとうまくなりたい」とずっと思っていた。

 平成11年12月31日、ハイジを辞めた。子供の病気で仕事が続けられなくなったのだ。薬代を稼ぐため、洋菓子店の商品開発や技術指導を請け負う仕事を始めた。ハイジ時代に営業や企画もやらされたことが役に立った。クライアントに言った。「ぼくの言うとおりにやったら、ぜったいもうかりますよ」

 三田で創業するまで3年半で契約した店は15社に上った。いろんなお菓子を見ていくうちに、何が大事かが見えてきた。

 ◆20%を変える

 「変わらないものが80%、変えるものが20%。変わらないものを大事にしないと、次のものが見えてこない」。ロールケーキやシュークリームのような“定番”をいかにおいしく作るかを考え、小山ロールもこの発想から誕生した。

 同様に、17年に増設したショコラ専門店に「奏(そう)」というお菓子がある。これはハイジの大ヒット商品「アルハンブラ」を再現したものだ。アルハンブラを継承しつつ、小山ならではの味付けがされて、まったく新しい商品として蘇った。

 ところで、洋菓子界の父と仰いだ前田は18年に亡くなり、ハイジも19年に倒産している。奏はハイジと前田への特別な思いが込められた菓子でもある。

 小山自身の「80%」は、紛れもなくハイジでの17年間、神戸のパティシエとの競争、舌の肥えた消費者によってはぐくまれたものだろう。“神戸スイーツ”を継承したうえで「20%」をどう重ねていくか。

 「他人のつくる菓子に興味はない」と断言。「オレのお菓子は本当においしいか。舌をもう一度磨く」と心に決め、和洋を問わずさまざまな料理人との出会いを求める。

 小山を目標にする若手は多い。“パティシエにあこがれた子供たち”だ。

 ある雑誌で「小山さんと一緒に仕事するのが最大の夢。どんな辛いときも小山さんがいたから頑張れた」と語る若いパティシエの記事に感激し、自分のお菓子を送り激励したという。

 小山にとって、人を育てることもこれからの使命だろう。しかし「師匠」といった言葉は似合いそうもない。小山を超える次代のスターを世に出す「プロデューサー」だろうか。(敬称略)

 文?安東義隆

                   ◇

 神戸をルーツに発展した洋菓子の歴史をふりかえり、重要な役割を演じた職人、菓子、店を描く。

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引用元:函館市歯科の総合情報サイト